‘2015/09’ カテゴリーのアーカイブ

裁判所に帰属する司法権

2015/09/27

民主政治というものは、立法権、行政権、司法権という三権によって成り立っているものです。

これを三権分立と呼んでいるわけですが、この三権を担っているものが、それぞれ立法府、行政府、司法府であり、これが立法府は国会で、行政府は内閣(日本の場合、アメリカの場合には大統領府)、司法府は裁判所となっているわけです。

そして、司法権というものはこの司法府にのみ帰属しているもので、立法府や行政府が司法権を持つことは認められていません。

というのも、司法権とは法が正しく運用されているかどうかチェックするための機能ですから、この機能は、法を作る役割を担っている立法府や、その法にもとづいて政治を行う行政府の役割ではなく、法の運用を司る司法府の役割だからです。

つまり、民主政治における三権分立とは、法を作る役割を担っている立法府、その法にもとづいて政治を行う役割を担っている行政府、そして法が正しく運用されているかどうかをチェックする(司る)役割を担っている司法府というように、三権をそれぞれに分担させて相互に協力させるようにすることで、権力が一箇所に集中して独裁体制となってしまうことを防ぐためのものですから、司法府の役割である司法権を、立法府や行政府が行使することは許されないのです。

裁判官が独立した地位である必要性

2015/09/27

裁判官というのは、憲法や法律といった、誰の目から見ても明らかな基準にもとづいて、公平で・公正な裁判を行い、国民のさまざまな権利を守るという役目を果たしています。そこで、特定の政治家や行政機関などからの圧力を受けて、その公平・公平性が失われてしまうと、国民全体としても大きな損失となってしまうことから、日本国憲法のなかでは、みずからの良心にしたがって、独立してその職務を行うといった立場が特に明文をもって示されています。
また、制度的な担保として、行政機関の手によって意図的に罷免させられてしまったり、在職中の報酬を減額されて不利益な立場に置かれたりすることがないようにという配慮も設けられるなど、他の職種と比べると大幅な身分保障がされているというのも特徴のひとつです。
しかしながら、犯罪行為のように国民を裏切るような行動をした場合には、これを厳しく律することも同時に必要になってくることから、日本国憲法のなかでは、最高裁判所の判事について国民審査で国民が直接的な意思表示ができる制度を、他の場合には国民の代表者によって組織された国会議員が裁判員を務める弾劾裁判所において罷免する制度を、それぞれ設けてバランスをとっています。

裁判官の立場

2015/09/27

裁判官は裁判において、両方の当事者の意見を聞いた上で、裁判の最後に公正な判決を下します。
それは、民事裁判だろうと刑事裁判だろうと変わりません。
彼らが裁判で下す判決は、当事者のその後の人生を大きく左右することになります。
刑事裁判に至っては、時に、死刑判決などと言った人の命に関わる判決も下さなければなりません。
なので、彼らには常に慎重かつ冷静な判断力が求められます。
また、判決を下す上で、他人の意見などに影響されるようなことがあってはいけません。
そうしたものに左右されることのない精神的な強さも必要とされます。
裁判で判決を下すには、法律に関する深い知識と、過去の判例に関する知識が、とても重要になります。
そのため、常にそういったことについて勉強しておくことも重要と言えます。
そして、裁判において過去の判例を重要視するということは、見方を変えれば、自分が下した判決も、その後の裁判において重大な影響力を持つ、ということを意味するのです。
そのことを踏まえて、常に慎重かつ冷静な判決を下すよう、日々勉強し、知識を蓄えることができる人でなければ、その職につくことはできません。
そうした努力を常に行っているからこそ、裁判で適正な判決を下すことができると言えます。

重要なのは、司法権の独立

2015/09/27

民主政治の大原則となっているものは、言うまでもなく三権分立です。

この三権分立とは、立法権、行政権、司法権という三権が互いに独立していて、これらが相互に補い合うことで国政が運営されて行くようにする、というものですが、その最大の眼目は、権力が一箇所に集中してしまう独裁政治となってしまうことを防ぐことにあるわけです。

このことは、もしもこの三権が一手に握られてしまえばどうなるのか、と考えてみればよくわかるでしょう。

国家の法律を作り、それを運用し、その運用をチェックする、という機能の全てが一所に集中した独裁政治となってしまえば、もはや法の適正など保てるわけがありません。

平気で人権蹂躙を行う悪法が作られ、それが行使されて人権蹂躙が行われても、その法をチェックするのも同じ法の作り手であり、行使する者であったなら、これはもはや無法状態と何ら変らないことになってしまうのです。

こうした事態を招かないために、民主政治においては、法を作る者と、その法を運用する者、そして、その法の適正を審査して不当な法であれば正させる者、というように役割分担をさせており、そのようにして権力が一箇所に集中せず、そのバランスが取れるように図っているのです。

このために、法の適正運用を図る司法権は司法府だけが行使できるのであり、立法府にも行政府にも認められてはいないのです。

部分社会と司法権

2015/09/27

司法権に関する論議として、部分社会というものを巡っての論議があります。

これは、学校や政党といった団体内部のことを指しているもので、そうした団体内部の規則や規律については、司法審査(違憲審査)権が及ばないとする、「司法の限界」というものを巡っての論議です。

しかし、この団体内部の規則や規律については違憲審査が及ばない、という考え方には、非常に問題があると言えるでしょう。

というのも、学校や政党、企業、または宗教団体などの内部規律として、極端な場合には、人権侵害となるような規律が設けられている場合もあるからで、そうした場合に、もしも司法審査(違憲審査)が及ばないということになれば、人権侵害を受けた人の救済ができない、ということになってしまうからです。

確かに、団体にはその団体としての規則や規律というものが必要となるでしょうが、それはあくまでも、法の範囲内のものでなければならず、法を逸脱したものであれば認められないものです。

従って、団体内部の規則や規律とはいっても、それはあくまでも法の範囲内のものでなければなりませんから、それから逸脱したものがないよう、司法による審査が及ぶものとなっている必要がある、と言えるのではないでしょうか。

 

統治行為論と司法権

2015/09/27

裁判所法の3条によると、「裁判所は、日本国憲法に特別の定めのある場合を除いて、一切の法律の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する」と規定されています。
ここでは「法律の争訟」という言葉がキーワードですが、これは紛争の具体性と終局的な解決が期待される法を指します。
つまり、抽象的に法律の解釈又は効力について争うことや単なる事実の存否、学問・技術上の論争、宗教上の信仰対象の価値、宗教上の教義に関する判断などは裁判所において除外されるのです。
しかし、法律上の争訟であっても一部裁判ができないケースもあります。
その中の一つが統治行為と呼ばれるケースです。これは直接国家統治の基本に関して高度に政治性のある国家行為を指します。
例えば日米安保条約や衆議院の解散などです。
日米安保条約は相手国(アメリカ)との政治的兼ね合いも絡んでくるため、司法権だけでは対処し切れません。
衆議院の解散についても国会・議院・内閣の自律権に関しているため、司法権だけでは対処し切れないのです。
例外として、極めて違憲性の高い条約などは司法権で対処することができますが、違憲と判断された法律の撤廃には国会の議決を必要とします。

行政権と司法権

2015/09/27

司法権は当事者間の具体的な権利義務に関する紛争に対して、法を適用することによって解決する国家の機能のことであります。法解釈によって国民の基本的人権を守り、安全な社会を維持していくために司法権の役割は大きいです。
司法権は独立が確立されていますので、公明正大な裁判を行うことができます。同じく裁判官も憲法と法律のみを基準として判決を出しますので独立が保障されています。
国会には裁判官の罷免に関する弾劾裁判を行う権限がありますが、行政権を持つ内閣は最高裁判所長官の指名や裁判官の任命を行うことが出来ます。逆に司法権をもつ裁判所は内閣に対して命令や規則、処分などが憲法に違反していないか審査します。
司法権は立法権を持つ国会に対しても、違憲立法審査権を発動することが出来ます。また、内閣と国会の間でも内閣総理大臣の指名や衆議院の解散を決めるなどの相互作用があります。
このように国会・内閣・裁判所の持つ権力がそれぞれ行き過ぎないように、お互い抑制しあっているため均衡が保てています。
しかし司法権には限界があり、国会や内閣の権利に対して司法審査が行えないことがあります。自立的法規範をもつ社会や組織の内部紛争に関しては、内部規律の範囲内である限り当事者の自治に委ねられるとされています。

 

立法権と司法権

2015/09/27

国家の権利である司法権は、民事事件や刑事事件を法を適用することによって解決する権利のことであります。紛争の解決のために利用されるので実際に行使するのは裁判所になります。これは憲法の第76条1項に全ての司法権は裁判所に属すると定められている通りで、これによって司法権の独立が確保されています。さらには司法権の行使について第76条3項に裁判官は憲法及び法律のみに拘束されると記載されており、裁判官の独立性も確保しています。
憲法ではさらに、裁判官が外部からの干渉や司法内部の命令によって罷免されたりすることのないように身分保障の規定を設けています。しかしこの身分保障によって裁判官のひとりよがりな判断に支配されないように、裁判官を辞めさせるか否かの弾劾裁判の制度を設けています。裁判官を罷免するかどかは立法権を持つ国会に権限があります。弾劾裁判を行うときは国会内に弾劾裁判所が設けられます。逆に司法権を持つ裁判所は国会が制定する法律が憲法に違反していないか判断する権限をもっています。この権限を違憲立法審査権といいます。
このように国家権力の行き過ぎを防ぐ為に、お互いが抑制しあって均衡を保っているのであります。

いまさら聞けない?司法権について

2015/09/27

中学で習ったはずの「三権分立」という言葉を覚えているでしょうか?国の持つ大きな権力を国会と内閣と裁判所が3つに分けて持ち、お互いに相手を抑制し合い均衡を保つことにより、権力が一点に集中して行き過ぎてしまうことを防ぐ仕組みです。国会が持つのは法律を作る権限である「立法権」であり、内閣が持つのは法律に基づいて政治を行う権限である「行政権」です。最後の裁判所が持つのが法律に基づいて裁判を行う権限であり、これが「司法権」です。
「司法権」の概要は「具体的な個々の紛争に対し、法を使って解決することを目的とする国の権利」と言うことができます。現在の日本では、民事裁判や刑事裁判はもちろん行政裁判も「司法権」の対象に含まれます。戦前の大日本帝国憲法の下においては、裁判所に与えられていたのは司法権の中でも民事裁判と刑事裁判を取り扱う権利だけであり、内閣の行う行政を裁く権利がなかったために「三権分立」が成立していませんでした。戦後に制定された現行憲法である日本国憲法の下では、民事裁判と刑事裁判はもちろん行政裁判も含めたすべての司法権が最高裁判所と法律の定めによって設置された下級裁判所に属することとされており、「三権分立」が成立しています。

民主主義国家の三権分立と司法権

2015/09/27

日本の政治は民主主義国家であり、三権分立というやり方をしています。これはモンテスキューの考えによって作られた制度です。政治を直接行う行政権を担う内閣、法律を作ることができ、法案審査や国の政治の調査を通して内閣を監視する、立法権を担う国会、そして、法律を司り、法律に反しているかどうかの決定権を持つ、裁判所の三つに分かれています。内閣が合法、合憲内かどうかの判断を下す最終決定権をもつ最高裁判所の裁判官を任命し、国会の召集や衆議院の解散、国会に対する連帯責任があり、国会は内閣を監視し、裁判官が不正な判決を下していないかどうかの裁判を行う権利を持ち、裁判所は内閣と国会の違憲、違法な行動を審査する権利を持ちます。そして、国民はこのなかの国会の議員になる人間を選挙によって選ぶことができる、間接民主制という制度の上で権利を持っています。
裁判所には「司法権の独立」という決まりがあります。これは、裁判官が裁判をするにあたって、法律的にも事実的にも、議会、政府、その他何ものの干渉によっても判決を左右されないこと、つまり、何にも影響されないで、裁判官の良心によってのみ、判決を下さなくてはいけないという決まりがあるのです。

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